【創作】おそば

僕が死んでから何時間が経った?
僕が死んでから一日が経った

寿命とは皮肉なものだ
何かがおかしいとは自分でも気付いていて、
愛する我が子とずっと一緒にいたかった
妻の泣き顔はもうこの一日で見飽きたものだ
孫は実際に目に入れてみようかと思うくらいに可愛かった

僕が死んでから何年が経った?
僕が死んでから1年と一日が経った

「何か食べてみてはいかがですか?」
天使はそう言ってきた

こんなただ真っ白い風景の中では
絵の具で何色かに汚してみたいと言う感情しか湧かんよ

「蕎麦はいかがですか」

蕎麦なら頂こうかな

「随分と啜るんですねぇ
あんなにも食べていなかったのに」

妻が好きだったんだ

「なぜ過去形で?
今も下界で蕎麦食ってますよ、奥様」

そこから食べていた蕎麦が雲の形に変化して

「どうなされましたか?感情の変化でも?」

僕は妻の隣で蕎麦を食いたいんだ
僕が天界で蕎麦を食べていても、雲を掴むようなもんじゃないか、こんなの現実じゃない

「雲は掴めるんですよ」

天使だけの話だろ

「いやいや、貴方もですよ」

目の前にひやりとした雲が現れた
幻想世界だ

「これから僕の言ったことをイメージしてくださいね、貴方の大好きな人を思い浮かべてください。
気持ちはどうですか?」

とても苦しい

「それは何故?」

隣にいてあげられないから

「…彼女ももうすぐこちらに来ますよ?」

病気で辛いだろう。そんな顔なんか1ミリも見たくないんだ。けど僕は、彼女よりも先にこちらに来てしまった。ずっと一緒にいてあげたかった
ずっと一緒に笑い合いたかった

「けど貴方の性格上、彼女さんの方が先に先立たれたら、メンタル持ちませんよね」

嗚呼

「彼女は強いお方です。」

強いから好きだけど、弱い所も好きだったんだ

「あらあら白髪の惚れけを聞くことになるとは」

沢山の友達もいたんだ。若い子だって沢山

「知っていますよ」

もっと一緒に遊んでやりたかった

「思い出ってね、常に更新されていくものなんですよ。貴方が隣にいない一日だって。想い合っていれば大切な一日なんです。」

慰めはやめてくれ

「事実を伝える事が慰めになるのですか?
さあ、大好きな人の事を考えてみてください」

心がとても暖かいよ

「あらあら、雲がおでんに変わりました
初めてお嫁さんと手を繋いだ時を思い出してください」

役者はそれも経験のうちなんてものも言うけれど、
一生浮気なんてしないって決めたね

「あらまた雲が現れました」

どんな綺麗な女優さんを見ても、
彼女の事が頭に浮かぶんだ
中身が綺麗でさ、その中身をアボカドみたいにくり抜いて食ってしまったら、僕以外は彼女の優しさを知らずに済むだなんて本気で思ってたよ

「雲が虹色に光っていますよ」

会えない時すら楽しくて、
会えた時の事を考えると嬉しくて、
会えた時の事を思い出すだけでも嬉しかったんだ
どう転んでも幸福だった

「それはそれは」

僕みたいな人を好きになってくれる人なんて生涯いないと思っていたんだ。
彼女は僕にないものを沢山持っていたよ
彼女は私にないものを僕が沢山持っていると言ってくれて、それから悩む日々も沢山あったけど、トータルして僕の人生はとても幸せだった。

「はい」

彼女の事をずっと考えてしまうんだ今も、
馬鹿だろう。僕は、僕はずっと彼女の事が大好きで、喧嘩したって自分の意見を伝えたって絶対に仲直りできる自信と、さようならをまた会う時にしか言わない自信があったんだ。そして僕は言わなかった
こんなに幸せな事ってあっていいのかな

「いいんですよ、続けてください」

とにかく大好きだったんだ
とにかく大好きで、ずっと一緒にいたかった
美味しいご飯を美味しそうに食べる彼女の顔を僕が独占して、増えていくシワの数さえも僕と一緒に重ねていった年輪の証だから、増えたシワの数を気にする彼女の事が可愛くて仕方なくて、まるでポメラニアンだったね

「目を開けてください」

そこには、ポメラニアンを抱いた彼女が目の前に立っていた

「貴方が少しだけ遠くに行ってしまってから、
貴方と同じ名前を付けたポメラニアンを飼ったの。
だけどその子は病気がちでね、若くして虹の橋を渡ったわ。時折犬アレルギーの貴方のくしゃみの音を思い出して、すこぶる愛しかったのだけれど
あら、泣かないで。会えたじゃない
会えたんだから、これからもずっと会えるよ
寂しかった?焦ってしまった?
辛い過去なんて見ないでよほら
天国ではアレルギーは関係ないんですってね、
さっき役所の方から聞いたわ
これからはずっと一緒
死んでも誓うわ、もう死んでるんだけれども」

天使は微笑んで軽くこちら側に会釈をし、
どこかへ去っていった

「あら、お蕎麦を食べたの?いいわねえ私も後で食べようかしら。一緒に食べよう

…どうしてそんなにも泣いているの?
見て見て、可愛いでしょ、ポメラニアン

君の方が可愛いよ

「あらやだわ、幸せね」

僕の方が幸せだよ